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中国鉄道駅名(マニアック)解説

中国鉄道の「とある」駅名たちを、(くだらない)解説で紹介していきます。

京滬(方面)線  京九(方面)線  京広(方面)線 隴海(四川方面)線 京包(方面)線

    京滬(方面)線

  • 滄州駅 袁紹の墓があるらしい。名門に生まれた彼だが、弟:袁術の相克や優柔不断のために自分の家を潰すことになった。


  • 平原駅 安喜県長官の職を捨てた劉備御一行様が、徐州の太守に落ち着くまでここで長官を務めていた。


  • 済南駅 後漢時代、黄巾賊討伐後、済南の相として赴任した曹操がこの地で辣腕を振るい、汚職官吏8割をクビにした地。


  • 即墨駅 戦国時代、燕の将軍、楽毅が斉を攻めた際、この城を残した以外はことごとく落とした。


  • 青島駅 黄巾賊出身である青州兵は曹操軍の主力となり、正史では「魏武の強、ここに始まる」と記されている。


  • 泰山駅 魏の武将、于禁の出身地。曹操軍参謀、程イクが若い頃、毎晩泰山の上で太陽(曹操)を支えていた夢を見ていた。
    但し、一時期彼は飢饉の時、兵糧に人肉を入れていた汚点もあった。


  • 徐州駅 常に戦乱の多かった地域のひとつ。後漢末期は曹操、劉備、袁術、呂布がかの地めぐって4すくみの状態が続いた。


  • 沛屯駅 徐州から北西70kのところにある前漢”高租”生誕の地。後漢時代は小沛と呼ばれ、196年袁術に攻められた劉備が呂布の軒門の射撃で救われた逸話がある。


  • 連雲港駅 糜竺の墓がある。彼は劉備の徐州時代のスポンサーであった。妹は糜夫人。


  • ヒ県駅 もと下ヒ。呂布の最期の地。彼の当代きっての最強の武力に手こずった曹操は、水攻めにするしかなかった。
    それにしても短い期間で領主が陶謙→劉備→呂布→曹操→劉備→曹操とコロコロ換わっている。


  • 鎮江駅 210年、劉備と孫夫人の政略結婚式がここ甘露寺で行われた。あと呉の武将、太史慈の墓がある。


  • 丹陽駅 孫策、孫権の父親、孫堅の墓がある。華雄を斬ったのは関羽ではなく孫堅で、董卓を唯一恐れさせた武将である。
  • 漢王室への忠誠が篤かった彼は後の学者から絶賛されている。

  • 無錫駅 中央電視版『三国演義』の撮影が行なわれた場所はここ。完成度が高いとの評判の声も。


  • 馬鞍山駅 呉の武将、朱然の墓がある。「三国志演義」では夷陵の戦いで助っ人趙雲に突き倒される哀れな最後を遂げている。


  • 宣城駅 「三国志演義」第15話ではこの地で、若き孫権を山賊の襲撃から守り重傷を負う周泰の姿があり、それを治療する華佗の初登場の場面がある。


  • 蘭渓駅 諸葛亮孔明の子孫が住む『諸葛八卦村』がある。上海からの交通は列車よりもバス乗り継ぎのほうがいい。
    上海→杭州→金華西→蘭渓南→諸葛鎮。


  • 京九(方面)線

  • 河間西駅 魏の驍将、張コウの出身地。孔明の北伐を戦死するまで阻止し続けた戦場武人である。


  • 清河城駅 清河公主。曹操の娘で、初め丁儀に嫁ぐ予定だったが、曹丕の「アイツ顔(目)が悪いですよ」の一言で破談。結局、夏侯楙に嫁ぐ。このことを怨んだ丁儀は太子争いで曹植に付くのであった。


  • ケン城駅 194年、曹操の徐州侵攻でエン州ががら空きになった際、呂布に攻め込まれるも荀イクらの奮戦でかろうじて保たれた城であった。


  • 定陶駅 195年、曹操と呂布がエン州を巡る最後の戦いがあった。結果曹操が勝ち、翌年には許に天子奉戴を行なった。


  • 亳州駅 後漢時代沛国。曹操フアン三大聖地の1つ。魏国の礎となる曹氏、夏侯氏の出身地であり、後漢の神医、華佗の出身地でもある。駅から曹操関連の遺跡の場所は遠くない。


  • 阜陽駅 ここを走る前進蒸気も有名だが、呉下の阿蒙の故事で有名な呉の戦略家、呂蒙の出身地。彼の不運は関羽を追い詰め、敗死させたことにより、後の時代は創作によって悲惨な結末を迎えるのであった。


  • 淮南駅 曹操軍後期の参謀、劉曄の出身地。彼はれっきとした王族である。


  • 合肥駅 215年、合肥の戦いで魏の江南司令官、張遼がしつこい孫権軍をボコボコにした。合言葉は「遼来来!!」これで泣く子も黙る。郊外に李典の墓と、満寵の堤防がある。


  • 巣湖駅 228年、第2次北伐で孔明が読み上げた「後出師の表」(偽物説)で「曹操軍は巣湖より南にいけなかった」と馬鹿にしているが孔明の軍略は結局、魏のカク昭の守る陳倉を抜くことは出来なかった。


  • 九江駅 呉の居城、柴桑城があった。周瑜関連の遺跡と孫策の墓がある。「三国志演義」では周泰と蒋欽が孫策軍に身を投じるまで、かの地で川賊を行っていた。


  • 廬江駅 呉の初代司令官、周瑜の出身地。彼の寿命があと5年延びていたら、天下3分は無かったかもしれない。


  • 瑞昌駅 呉の武将、程普の墓がある。元々、河北出身であったが、孫堅、孫策、孫権三代に仕えた。


  • 陽新駅 呉の武将、甘寧の墓がある。元々は、巴郡の川賊出身。魏の張遼に並び称される程優れた武将であった。


  • 京広(方面)線

  • タク州駅 後漢の寝業師・劉備、豪傑・張飛、お調子者・簡雍の出身地。最近は北京から近いため観光客が増えている。バスの移動グー。


  • 正定駅 後漢の常山。蜀の将軍、趙雲の出身地。「常山・子龍ここにあり!!」のセリフは有名。


  • 井ケイ駅 楚漢争奪戦時代、漢の将軍韓信が背水の陣を敷いて、楚斉連合軍を破った場所。


  • 中牟駅 200年、曹操と袁紹が河北の覇権をかけて官渡の戦いが行われた。結局、曹操が勝ち河北の支配を決定付けた。


  • 延津駅 官渡の戦いの前哨戦が行われ、文醜が曹操軍の軍師、荀攸の計略に引っかかり戦死している。


  • 鄭州駅 歴史上の中で、重要な交通の要所。さいたま市とは姉妹都市の間柄である。


  • 榮陽駅 190年、董卓軍の徐栄と反董卓連合軍の一武将曹操がぶつかった場所。結果は曹操の惨敗。この頃の曹操軍は募兵した兵隊に反乱を起こされるなど兵の管理に苦労していた。


  • 長葛駅 魏国の支柱、荀ケ一族の墓がある。


  • 許昌駅 曹操ファン三大聖地の1つ。後漢の頴川郡かつ後漢最期の首都(許都)。後漢末期には頴川学閥(荀氏、陳氏、司馬氏、鍾氏)と呼ばれる曹操政権の中核を担うエリート集団があった(これに対抗する袁氏、孔氏、楊氏などの汝南学閥があった)。2004年4月のJALツアーで初の許昌日帰りオプショナルツアーが組み込まれた(拠点は鄭州)。


  • 漢陽駅 劉表および魏の対孫呉前線基地。かつては江夏と呼ばれた場所。漢水と長江の合流地点は劉奇の建てた城があった。
    近くの山には、三国公園があり、赤壁記念館と三国時代の武将の銅像と、魯粛の墓がある。
    後代の詩人に親しまれた禰衡の墓は、漢陽と武昌の間に流れている長江の中洲に昔はあった(鸚鵡洲、今は無い)。鸚鵡公園なら今でもある。


  • 武昌駅 呉の対魏前線基地。歴代軍事要塞として知られ、辛亥革命ではまずここが襲撃されている。
    案外知られていないが、ここも呉にまつわる地名や遺跡がある。マニアックな部分では黄蓋が出撃した津。知れば知るほど面白い。


  • 赤壁駅 曹操軍が周瑜率いる孫権軍に運悪く負けた場所。周瑜像がある。2〜3年前、蒲圻駅から赤壁駅に替わった。


  • 岳陽駅 周瑜の奥さんである、小喬の墓がある。


  • 長沙駅 孫堅が黄巾討伐後、この地を治めた。ただ韓玄、黄忠、魏延のほうが有名だろう。


  • 広州駅 呉の虞翻の庭がある。虞翻は孫権と仲が悪く、毎回交州に流されていたと言われているが、実は地元の土氏や蜀の動向を探るスパイ説が浮かび上がってきている。


  • 関林駅 関羽の首塚がある場所。現在は博物館に揺れる関羽人形がある。関羽の首と対面後の翌年、曹操は洛陽で66歳の生涯を閉じた。


  • 南陽駅 魏の文聘の出身地であり、青年孔明が晴耕雨読をしながら、仕えるべき主を待っていた場所。ただあまりにも待ちすぎたため、「三国志演義」では師匠である司馬徽から「臥龍も主を得たが時を逸した、おしい」と言われている。


  • 襄樊駅 魏と蜀の国境地帯、樊城があった。219年、関羽がこの地を水攻めにするも、曹仁、満寵の踏ん張りと援軍の徐晃のおかげで、陥落は免れた。


  • 襄陽駅 後漢の荊州の治所。ここには戦火を逃れた学者達によって形成された荊州学閥があった。


  • 当陽駅 部下の家族を人質に取った劉備が曹操軍の追撃を受けて、連行した難民を散らして逃げ去った場所。趙雲や張飛がどんなに主君に忠誠を尽くしたとしても、主君がこれじゃあ国が滅亡してもおかしくはない。


  • 玉泉寺駅 「三国志演義」では非業の死を遂げた関羽の魂が大往生を遂げた場所。


  • 宜昌駅 現在、長江のほとりに、太鼓を手にする張飛の朔像がある。かつては夷陵と呼ばれた。この地で陸遜の火計に大敗した劉備が長江の水にあたり(ウソ)、それが元で下痢、発熱を起こし、白帝城で死んだ(下痢を伴う発熱は本当)。


  • 隴海(四川方面)線

  • 洛陽駅 後漢時代は首都だったこともあった。後漢の洛陽は董卓によって破壊され、曹操によって復興を遂げている。


  • 運城駅 関羽と徐晃の出身地。関羽が曹操軍に居た頃、張遼と徐晃とは仲が良かった。


  • 潼関駅 210年、曹操軍と馬超軍がぶつかった場所。曹操は窮地に陥るが、許チョの奮戦で救われた。


  • 渭南駅 結局、ここに塞を築いた曹操軍の持久勝ちとなった。


  • 蔡家坡駅 孔明がくたばったところ。あと魏延と司馬懿父子が孔明に焼かれそうになった葫蘆谷があったところ。


  • 宝鶏駅 何にもない五丈原がある。(諸葛)蕪だけでは戦えません。


  • 天水駅 姜維の出身地。魏軍だった姜維は孔明の第一次北伐の勝ち戦の尻馬に乗る形で蜀軍に寝返ったが、彼の運はここで尽きていた。


  • 武威駅 曹操軍の張繍、参謀、賈クの出身地。賈クは正史の注を付けた裴松之に蛇蠍のごとく嫌われたが、清流派士大夫達と違い、彼の生活自体は慎ましかった。


  • 隴西駅 後漢末期の軍閥、董卓の出身地。彼の最大の罪は、腐った漢王朝の命脈を完全に絶たなかったことである。あと魏の王双の出身地。


  • 張掖駅 董卓軍残党、郭の出身地。「三国志演義」では曹操に敗れたあと、部下の伍習に殺されている。


  • 長安駅 西安からすぐ南に位置する。かつて前漢の繁栄を支えた古都の名称。


  • 旬陽駅 蜀にとっては裏切り者の代名詞になった孟達の墓がある。劉璋時代の裏切り三勇士(張松、孟達、法正)のうち法正以外の最期は悲惨だった。


  • 秦嶺駅 孔明の北伐を阻んだ山脈。兵糧の運搬を確保するため、孔明は木牛、流馬(一輪車)を開発した。


  • 漢中駅 219年、定軍山の戦いで、夏侯淵が黄忠に斬られた。孔明と馬超の墓がある。


  • 勉県駅 列車が1日に往復1本しか停車しない。孔明死後、魏延が馬岱に斬られた場所。


  • 陽平関駅 後漢時代、五斗米道が拠った場所。降伏後、教祖の張魯は曹操によって鎮南将軍に抜擢された。五斗米道(道教)の教義は民間信仰として現在の中華圏に残っている。


  • 重慶駅 巴郡江州。蜀から荊州へ抜ける重要な入り口。


  • 万州駅 呉の武将、甘寧の出身地。ただしこの地域は民度が低く、党幹部の圧政とあいまってよく暴動が起こるので注意。


  • 渠県駅 蜀の張飛と魏の張コウがこの地を巡って戦い、張飛の計略が光った場所。


  • 南充駅 王平の墓がある。「三国志演義」では地味キャラであったが、軍事、内政共に秀でていた。あとショウ周の墓がある。


  • 広元駅 張飛と馬超が一騎討ちを行なった『戦勝坡』がある。


  • 綿陽駅 劉備と劉ショウが面会を行なった場所。もちろん腹黒い劉備の方が一枚上手であった。


  • 徳陽駅 劉備が入蜀の際、戦死した参謀・ホウ統の墓がある。別名、落鳳坡。


  • 成都駅 動乱の時代に、いくつもの地方軍閥政権が誕生した。でもこの地から天下を平定できた者はいない。


  • 曲靖駅 225年、孔明率いる蜀軍と南蛮の王孟獲が戦った場所。陳舜臣の小説「諸葛孔明」だと孟獲は「お前だったのかー!!」というくらい重要な隠れキャラである。


  • 昆明駅 南蛮侵攻の軍を起こした孔明が、部隊を三つ(孔明、李恢、馬忠)に分け各地を平定した後、この地で合流した場所。


  • 大理駅 孔明が南蛮の王孟獲を捕らえた場所の1つとして伝説が残っている場所。しかし実際は蜀軍はここまで来ていない。


  • 京包(方面)線

  • 五原駅 後漢最強の武人、呂布の出身地。彼が陳宮の意見をもっと取り入れていたなら、曹操を打ち負かしていたかもしれない。


  • 参考文献 「正史三国志, 武帝紀、先主伝、諸葛亮伝など」「三国志演義」「歴史群像・三国志シリーズ」「中国鉄路地図」「全国鉄路旅客列車時刻表,2003,10」

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    関連サイト中国鉄道で行く三国志の旅

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