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T52次乗車記

乗車した列車番号 乗車区間 切符の種類 切符の金額 乗車した日付 乗車した時間 乗車した距離
T52次
上海ー烏魯木斉
新空調軟座特快上鋪
1033元
7月24日〜26日
47.1時間
4077キロ
1日目:強襲!阻止限界点(列車の乗るまでの過程)

上海駅前のマクドナルド、面白い壁絵です  T52次はシルクロード特快として20年以上前からある列車です。手元にある95年の時刻表を見ますと、 ウルムチまでの時間は約71時間かかっています。しかし相次ぐダイヤ改正とスピードアップのおかげで、04年7月の時点で 約48時間に短縮されました。

列車編成は軟臥、硬臥、食堂車を挟んで硬座車が他に発電車、荷物車があります。

 切符ですが、上海の旅行会社に頼んだときは3週間以上も前でしたので、切符は10日前から発売ですけど大丈夫ですよ、と頼もしい返事が 返ってきました。しかし連絡が取れない間(電話では軟臥取れましたといわれる前)、たまったメールボックスを見ると「T52次の切符取れません」 というタイトルのメールが3通来ていました。内容は、軍人の団体移動と学生票が重なったためと書かれており、切符は一般よりも軍人や学生に 優先されて販売しているという実態がわかりました。たまたま旅行会社の方が、だめもとでキャンセル待ちを行ったところ、すぐ取れたらしいです。 発車当日の上海駅の切符売り場を見ると、週末ということもあって、長距離列車の切符の寝台はほとんど売切れでした。
 さてこちらの体調ですが、夜中はホテルでぐっすり眠れましたが、朝になってもやっぱり下りっぱなしで、メールで得た情報を元に薬を買いに行き、 追加料金を払って、夕方の6時まで滞在しました。朝からなにも食べていませんが、脱水症状になるのは嫌なので、水とビスケット類は買いました。 とりあえず、お腹の下痢を止めるため即効性の薬を飲み(強襲)、ウルムチまでに治るように(阻止限界点)祈りました。ウルムチで治らなければ 病院に行くことも覚悟はしていましたが、ウルムチに着いて治りました。

中原の星 鄭州ー武昌を結ぶ  上海駅に着いたのは夜の7時半過ぎ。真っ先に軟席候車室に向かいます。奥の列車案内の電光掲示板には、日本語でも案内が書かれていました。 発車30分前に案内が放送されて、列車が待つホームへと駆け足で向かいました。軟臥車両は8両目でしたが、2両目から6両目の硬座車両は 人人人の山で、入り口が込み合っていました。
 機関車はダイヤ改正時に登場した、永久2連結機の気動車(DF11G型)で、電力不足が続き鉄道の電化は当分無さそうな 上海方面の列車のスピードアップ機として期待されています。発車時の包房乗客は、軍人の息子夫婦と別れを惜しむウルムチに戻る母親と自分だけでした。向かいの2段ベットは 空いていました。電源は上段ベットと通路側の壁の間にありました。他はやっぱり日焼けした立派な体格を持つ男とその家族のグループがいくつかの包房に分かれていたので恐らく軍人の家族という客層だと思います。 

   列車は20:38に上海を発車して、これから眠りに着こうとする巨大な経済都市を背に一路西域へと進行しています。蘇州、無錫停まり、常州に着くころは何も食べずに横になって いました。途中駅で乗ってきた無座客が自分たちの部屋に勝手に入ってきて、ベットに入りましたが、服務員に見つかりすぐに追い出されました。 夜中に南京駅に到着しましたが途中の乗客で、下は親子連れ、上は赤子を抱えた3人の家族が乗ってきました(旦那さんは硬臥室で寝ました)。南京を出たころは、もう記憶がありませんでした。

 2日目 軟臥のいつもの風景
 朝起きたのは6時半。ちょうど開封から鄭州に向かう中です。朝ご飯は食べていません。乗車前に買ったビスケットを何枚かを口に無理やり入れながらお腹を膨らませました。まだ油断はできません。 鄭州を過ぎて、洛陽を通過すると青々とした雑草も交えた緑が消え、黄土むき出しの大地が広がってきます。昔は洛陽から西安の遷都、もしくはその逆が行われていましたが、無表情な黄土は何千年から 人やものの動きを見つめていたのでしょう。このころの天候は悪く、曇りと雨が続いていました。渭南からは晴れ間が出てきて、蒸し暑そうな天候に変わりました。

 お昼に西安に着きましたが、ここも人の波が多く、硬臥にもしくは無座の乗客が軟臥のデッキから乗ってきました。無論軟臥の通路にずっといられなく、寝台が空きお金を払った人は硬臥へ、ただ乗る人たちは硬臥の デッキか硬座のデッキに行かされました。お昼は南京から乗ってきた孫さん親子にご馳走になりました。彼らはジョ州から南京まで来て、南京から無座の切符を買い、そして運よく軟臥が空いていたので、ここに着いたというわけです。 娘さんの毓馨ちゃんはまだ小学生だから無座と硬座はきついとおもいます。
 食堂車は無座の人たちが座っていましたが、昼食時には追い出されていました。まだお腹の調子が良くなかったので、昼食後昼寝をしてしまい、おきたのはもう夜で、蘭州に到着したころでした。もう一方の 家族はお父さんが軍人で、妻とまだ生まれて一ヶ月の赤子と3人で母方のウルムチの実家に行くそうです。日中は赤子をあやすのに大変そうでした。例の股割れズボンをはいていたので、おしっこは空いたペットボトル にいれて処理していました。夜は孫さんからナンをいただきましたが、今度は風邪を引いたらしく、黄連素と風邪薬を飲んでさっさと寝てしまいました。

 3日目

嘉峪関駅での機関車の交換  朝起きたらすでに景色は砂漠のような場所でした。今日ウルムチに到着しますが、あと12時間乗車しなければいけません。列車は嘉峪関に到着し、朝日を浴びながら駅を発車しました。ちょうど嘉峪関らしき建物が遠くに見えました。時代の違いがあるにしろ、東の山海関から 続く長城の西の果てです。軟臥の乗客はみな廊下の窓から地平線から昇ってくる朝日を拝んでいました。所々に急カーブがあり列車の先頭が見えますが、ここはもう非電化地域でディーゼル機関車が重連で走っているのが見えます。敦煌まで山頂に雪を頂いた祁連山脈が見えます。 今日で到着するからなのか、無座の人々は空いた軟臥や硬臥には席替えを申請せず、通路で新聞紙を敷いて寝ている人々が多く見受けられました。

   お腹の具合は大分良くなりましたが、便秘になるのが嫌で、催しそうな場合はたとえ垂れ流しであっても、洋式のトイレに行きました。ここで困ったことが、紙がまったく無かったのです。 だからドアを内側から叩いて、「救命阿!」と叫んで(恥ずかしい)服務員にトイレットペーパーを持ってこさせました。
 敦煌に着いたのが9時過ぎでさわやかな朝とは違い、天候がどんよりしていました。予定よりも早く着いたので、先頭車両まで行って、機関車の交代を見物していました。ところが発車ベルが鳴っているのです。 ホームを見たら誰一人としていなく、あわてて走り出すと、硬座の服務員が自分のほうに指を差して「ここから乗れ」といわんばかりに硬座に乗せました。その直後列車は発車し、鈍い音を立てながら加速していきました。 もちろん食堂車経由で軟臥にもどったら、同室の方々から安堵の笑みを見せられ、そのあと列車長に「用も無いのに先頭車両まで行かないで!」と怒られました。まさか予定よりも早く発車するとは考えてもいなかったので、 恐るべし中国鉄路と思いました。

南にそびえる祁連山脈  北京の友達から連絡が入り、Z列車の北京ー南京行きの軟臥下段は取れたんだけど、Z15次北京ーハルピン行きは軟臥下段は無く、Z16次ハルピンー北京間の軟臥は売り切れという至急の電話をもらいました。 とりあえず、北京ーハルピンは軟臥の上段でいいとして、ハルピンから先はなんとかすると答えました。

 敦煌を出ると天候は回復して、日差しの強い時間がやってきました。蒸し蒸しとしていないので砂漠の暑さです。軍人さんに「ウルムチに着いたらどこにいくんだ」と聞かれ、「天池」と答えました。そしたら天池もいいが、アルタイの方がずっときれいだ とアルタイ地方のすばらしさを教えてくれました。敦煌を出てからしばらく乾いた大地と風化で出来た岩山が続きましたが、お昼ころには砂漠のオアシスともいうべきか、緑々と生い茂るトウモロコシ畑や、木陰になりそうな樹木、そしてハミ瓜を満載にして走る小型トラック が見ることが出来ました。
 昔は敦煌から先は異国で、哈密はその異国で出会う最初の都市でした。哈密駅にはお昼ごろ到着しました。今度は敦煌と違い正確な発車時刻も掲示されていたのでゆっくり駅内を見渡せました。 ここの名物はハミ瓜です。1個2元と大変安く、みなこの瓜を求めて殺到していました。他にも葡萄らしきものも販売されていました。飛行機でウルムチから北京に戻るとき、空港のカウンターでハミ瓜と葡萄の箱をカートに満載した 中国人観光客を目にしました。

48時間の長旅の末、烏魯木斉駅に到着  哈密駅を出るとしばらくまた乾いた台地が続きます。途中スコールもありましたが、天候に左右されることなく列車はひたすら西へ西へと進路をとり続けます。 観光名所が多い吐魯番到着は時間で見ると夕方ですが、2時間北京と時差がある地域なので、まだ3時くらいの日の高さでした。 吐魯番から烏魯木斉までのあいだ、景色がころころと変わりました。何も無い砂漠とおもっていたらとんでもない、岩山をくりぬいたトンネルが続き、南のほうでは塩の湖があり、かというとウルムチ近くでは巨大な風車を幾つも利用した発電所 らしきも見れました。烏魯木斉に近づくにつれ、服務員たちは通路の絨毯や、軟臥のシーツを片付けていきました。この仕事が終われば彼女たちは翌日は休みなのでしょうか?というくらいてきぱきと片付けていきます。
烏魯木斉に着いたのが少し遅れて20:00くらい。まだ明るいです。
やっと夕方になった感じです。この駅からカシュガル行きの列車、カザフスタン行きの列車が発車しています。うわさでは、カザフスタンからトルコのイスタンブールまでで国際列車が出ているとも聞いています。 また多くの出会いもあります。ホームでは出迎えの人でいっぱい。みな自分を除いて出迎えの人に迎えられながら列車を降りていきました。孫さん親子も現地の親戚の方々と久々の再会を喜び合っていました。 お腹の具合は良くなりましたが、ホテルに着いたのは9時過ぎで、何も食べずに寝ました。

 T52次の列車はおそろしく長く、また人間くさい列車でもありました。品はありませんが、久しぶりに中国人のあたたかさを感じさせる旅行でした。

次回は、空前の暴挙、1700元の男、Z15/16次乗車記ゴージャス!ハルピンをお送りします。

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