遺跡名 (名称) |
関連武将 |
場所 |
列車乗車 (お勧め鉄道) |
古隆中 徐庶廟 水鏡庄 |
諸葛亮 徐庶 司馬徽 |
湖北省
襄樊市 |
武昌・漢口発城際特快 |
遺跡の概要
後漢時代は劉表の荊州支配地域の拠点で、漢江を挟んで襄陽城と樊城に分かれていた。劉表の息子が曹操に降伏後、赤壁の戦いを経て、魏国の対南前線基地となる。後漢終焉真近、蜀(荊州)の関羽が樊城を攻めるも、守将の曹仁と満寵の踏ん張りで陥落を免れた。
古隆中は孔明が10年間引き篭もり暮らしを行なっていたところです。彼の不運は全知全能のために人を生かすことが出来ず、彼を越える勢力が現れると全く太刀打ちできないことでした。
襄樊駅前より直接行くバスが出ています。
徐庶廟は孔明の友人である徐庶を祭る廟。母親が曹操軍に捕らえられたため、やむなく曹操に降るが、孔明よりもマシな暮らしを送ったと思えます。
襄樊市から南ショウ行きのバスに乗ります。バスターミナルの近く。
水鏡庄は司馬徽の裏名前で彼が住んでいた場所だが、『三国志演義』のせいで、劉備や趙雲よりも若い司馬徽はジジイ呼ばわりされることとなりました。
南ショウのはずれの方。玉渓山の麓。バスターミナルから3,4キロくらい。
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列車でのアクセス
北京西駅より、重慶行きのT9次(16:25→5:10)、宜昌行きのK49次(14:30→6:51)、十堰行きのK279次(17:00→10:55)が早朝、午前に襄樊駅に着く。武漢市からだと城際特快がいいです。
宜昌・当陽・新野・南陽・荊州からならバスの移動がいいです。
ただし、襄樊駅は途中駅にあたるため、帰りは無座の可能性もあるので、武漢まで城際特快かバスで戻ったほうがいいです。 |
当陽 |
遺跡名 (名称) |
関連武将 |
場所 |
列車乗車 (お勧め鉄道) |
長坂坡
当陽趙雲像 太子橋 張翼徳横矛処 玉泉寺 関陵 周倉墓 |
趙雲 張飛 関羽 劉禅
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湖北省
当陽県 |
襄樊→湛江行き1473次 襄樊→広州東行き2115次
襄樊・荊州・宜昌 からバス移動
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遺跡の概要
長坂坡は劉備軍が兵の家族を人質に取り、難民を追い立てて江陵に逃げる途中、曹操軍に追いつかれ、難民を棄てて逃げた場所。
当陽趙雲像は親に棄てられた劉備の子:阿斗を守るため、活躍した趙雲の像。
太子橋は趙雲が阿斗を抱いて曹操軍を駆け抜けたところ。街の中心にある。
張翼徳横矛処は張飛が曹操軍相手に単騎で睨みを聞かせ、軍を撤退させた場所。市中心から北東約5キロ。
玉泉寺は関羽が首を刎ねられ死んだ際、ここで成仏した場所。当陽郊外20キロほど。
関陵は関羽の胴塚。場所は当陽県郊外古ショウ郷。首塚(関林)の方は洛陽にある。
周倉墓は関羽の舎弟:周倉。物語創作人物だが墓があるのは奇妙。場所は当陽県郊外東南約15キロ。 |
列車でのアクセス
線路と駅はあるが、旅客列車の本数が極めて少ないため、宜昌、襄樊、荊州からバス移動の方がいいです。
襄樊長途汽車客運から宜昌行きの高級バスが途中で当陽に停車する。40分に1本の間隔で発車しています。
武漢なら武昌付家坡客運汽車站から1時間に1本間隔で当陽行きのバスが発車しています。
どうしてもと言うなら、襄樊から湛江行き1473次(9:15→当陽11:47)か、広州東行き2115次(13:10→当陽15:37)があるが、非空調車輌のうえ、硬座しか乗れない。2時間半。 |
荊州 |
遺跡名 (名称) |
関連武将 |
場所 |
列車乗車 (お勧め鉄道) |
荊州関帝廟 荊州三国公園 荊州博物館 関公刮骨療毒処 関羽点将台
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関羽 |
湖北省
荊州市 |
なし 武漢・襄樊・宜昌からバス移動 |
遺跡の概要
荊州市は後漢時代は軍物資が置かれた場所で、劉備が掠め取りに行くところ曹操軍の追撃に遭い、大敗した。赤壁戦い後、曹仁が守将として1年余りにわたり周瑜率いる呉軍と戦い惜しくも敗れた。
周瑜死後、劉備が蜀を侵略するための足場となり、関羽を荊州の守将として置く。曹操が漢中を攻める直前、呉の司令官:呂蒙とあわや開戦となるが劉備の荊州三郡返却により和睦がなる。219年、関羽は樊城を攻め、救援の于禁軍を破るが捕虜の食事問題で、呉の食糧基地を襲ったことが呉軍の襲来を招き、219年暮死んだ。
関羽関連の遺跡がある。関公刮骨療毒処は荊州中心医院内(荊中路72号)と何と病院。
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列車でのアクセス
線路はあるが、旅客列車は走っていないため、バス移動になります。
武漢なら漢陽客運汽車站、
襄樊なら襄樊長途汽車客運(江陵か沙市で下車)、宜昌なら宜昌長途汽車客運からバスが出ています。 |
宜昌 |
遺跡名 (名称) |
関連武将 |
場所 |
列車乗車 (お勧め鉄道) |
オウ亭古戦場
張飛擂鼓台 |
劉備・陸遜 張飛 |
湖北省
宜昌市 |
K49次(北京西駅発) K253次(上海発) 武漢発城際特快 2116次(広州東発)
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遺跡の概要
オウ亭古戦場
蜀皇帝にまで僭称した劉備が関羽の復讐のためここまで攻めて来たが、所詮仇討ちだけでは敵を倒すことが出来ず、中原には無名だった陸遜の火計に破れ多くの家臣を失い、蜀滅亡の遠因を作った場所です。
宜昌から東方面へ出ている長距離バスに乗ります。30分から一時間ほどで道の右手に見えます。
張飛擂鼓台
張飛が宜都の太守であった時に、兵士の訓練をする為に台を作って太鼓をたたいたとされる場所です。長江沿いにある三遊洞という名勝の中にある。太鼓をたたく張飛の像があります。
市内バスが通っています。宜昌駅付近から出ている10路バスで『三遊洞』下車します。 |
列車でのアクセス
北京西駅からはK49次が出ている(14:30-10:35)。硬座175元、硬臥319元、軟臥486元。
上海駅からはK253次が出ている(15:39-20:19)。硬座208元、硬臥379元、軟臥584元。
広州東駅からは2116次が出ている(13:15-10:01)。硬座81元、硬臥153元、軟臥244元。
武漢からは城際特快が出ています。
襄樊なら襄樊長途汽車客運から宜昌行きの高級バスが40分に1本の間隔で発車しています。60元。 |
陽新 |
遺跡名 (名称) |
関連武将 |
場所 |
列車乗車 (お勧め鉄道) |
甘寧公園 甘寧墓 甘寧寺 |
甘寧 |
湖北省
陽新県 |
無し、バス移動
九江からバス移動 |
遺跡の概要
甘寧は呉軍の猛将で、魏の張遼と並び称されている。元々は重慶の万州(巴郡)出身の錦汎賊だけど、劉表→黄祖→孫権と転職して大成しています。
正史の最期はわからないが、『三国志演義』では夷陵の戦いで矢を頭に突き刺したまま、武昌と九江のあいだにある陽新富池まで逃げて死んだことになっています。
死に際に際し、周りには数十羽の烏が飛んでいたという伝説があるからその生涯はインパクトだらけ。ということでこの地では英雄扱いされており、専用の墓や像が建てられています。
甘寧公園:甘寧テーマパーク。園内には甘寧墓、甘寧像、甘寧寺、甘泉などみどころが盛りだくさんあるみたいです。
甘寧墓:甘寧の衣冠塚。
甘寧寺:甘寧を御神体と崇めるお寺。
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列車でのアクセス
バス移動の方がいいです。武漢→黄石→陽新→富池。
もしくは 九江から陽新までバス移動。
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